日本人移民の歴史:
   キャプテン・クックのハワイ発見とハワイへの移民の歴史

     文: 篠遠 和子 (ビショップ博物館 日系人移民資料担当)

 
      ● 三度目の航海でハワイを発見したクック
      ● カメハメハ一世が統一 (一七九五年)
      ● ハワイの独立
      ● 砂糖キビの栽培始まる
      ● 一八六八年に初の日本人移民来る
      ● 一八八五年官約移民始まる
      ● 私約移民の時代へ
      ● ハワイが米国の属領に
 
● 三度目の航海でハワイを発見したクック
ハワイは世界でもユニークな多様性のある文化を持った土地として知られていますが、
現在のハワイを歴史を通して考えました場合、一七七八年に英国の探検家ジェームス
 ・クックによるハワイ諸島の発見ということが、当時ポリネシアの一環として原始的な石
器時代にあったハワイに近代文化への転機を与えたという意味で、見逃すことが出来
ません。
 
キャプテン・クックは、一七二八年十月二十七日、英国ヨークシャーの農家の七人兄弟
の二番目として生まれ、初等教育を受けただけで、十七才で石炭輸送船の船員とし て、
英国沿岸を航海する機会を持ち、その間に独学で数学と航海術を身につけたと言われ
ています。
 
一七五五年、二十六才で英国海軍に入り、一七五八年にセント・ローレンス河岸の
調査を行いました。 その結果が、当時七年戦争において英国を非常に有利に導い
たので海軍の上層部から認められました。
 
クックの太平洋航海は、三回に亘って行われました。 第一航海は、一七六七年から一
七七一年に亘り、エンデボアという三百六十八トンの船で行われました。 その目的の
第一は、当時一七六九年に金星による日食を各地で観測するために、太平洋海域に
おける観測地として、一七六七年英国のサムエル・ウォーリスが発見したタヒチが選ば
れたので、その天文学者や自然科学者に同行すること。
 
もう一つは、当時アレキサンダー・ダーリンプルという学者が地球の重量のバランスの
上から、北半球同様、南半球にも大陸がある筈だという仮説を立て、テラ・オース トラリ
ス・インコグニタという仮想大陸の存在を唱えたのを確かめるというもの図でした。
 
クックの一行は、英国を出発し、ケープ・ホーンを回り、東から太平洋に入り、ソサ エテ
ィー諸島に向かい、そこで日食の観測をした後、ニュージーランド及びオースト ラリア附
近の海域の測量をして海図をつくり、オーストラリアの北からボルネオ附近 を経て英国
に帰りました。
 
それからすぐ続いて、一七七二年から一七七五年に亘って第二次航海が行われまし
た。 この時には、アドベンチャー号(三百三十六トン)、リゾリューション号(四百六十
二トン)という二隻の船を使用しています。 この時は、第一次探険の続きでテラ・ オー
ストラリス・インコグニタを探るために南太平洋を縦横に航海すると同時に、スペイン人
のメンダーナが一五九五年に発見したマルケサス諸島および、タスマンに寄 って一六
四三年に発見されたトンガ諸島を確認し、また当時まだ一般に使われていな かったク
ロノメーターによる経度の測定をこの航海において、実用化しようというものでした。
 
この第二次航海においては、太平洋を西からオーストラリアの南に達し、そこからニュ
ージーランド、ソサエティー諸島、トンガを経た後ニュージーランドに戻って南下 し、南
氷洋に至り、イースター島、ソサエティー諸島、マルケサス諸島、トンガ、ニ ューカレド
ニアのニューヘブリデスへ達した後、ニュージーランドに再び戻り東側を回って英国に
帰っています。
 
続いて第三次の航海は、一七七六年〜一七七九年で、この時にはリゾリューション号
(四百六十二トン)とディスカバリー号(二百九十五トン)の二隻が用いられました。  こ
の時は太平洋へ西から入ってニュージーランドに達した後、トンガ、ソサエティー諸島に
至り、一七七五年十二月、ソサエティー諸島のボラボラ島を出発、当時まだ全く地図
にも載っていなかった白紙の太平洋を北進し、十二月二十四日に島を発見、それが丁
度クリスマス・イブだったのでクリスマス島と名付けました。
 
この時の航海で、クック一行は、タヒチを再び訪れ、前の航海の時にタヒチから英国へ
連れて帰った島民を送り返すと共に、英国国王の贈り物である植物の種や、家畜など
を島民に届けました。
 
この航海には、後に非常に有名になったジョージ・ヴァンクーヴァーと、バウンティ 号の
反乱で有名なウイリアム・ブライが測量家として同行していました。  そして一 七七八
年一月十八日にハワイのオアフ島を、続いてカウアイ島、ニイハウ島を発見しました。
 
同一月二十日にカワイ島のワイメアに上陸して、二月二日にニイハウを訪れた後再び
太平洋を北上、三月から十月まで太平洋を更に北に進んでアメリカ大陸の北西岸に
沿って大西洋への抜け道を探して航海を続けました。  しかし、十月の末に船の破損
が酷くなり、また厳寒の北太平洋の冬を避けて、船員達にも休みを与えるため、先に
発見したハワイ諸島に向かって南下、十一月二十六日にマウイ島を発見しました。
 
ところが、非常に海が荒れていてなかなか上陸地点が見つけられず、八週間に亘って
投錨地を探しているうちに、ハワイ島を発見、十二月二日にサウス・ポイントを回り、
一七七九年一月十七日ケアラケクアに上陸しました。
 
この時ハワイの島民達は、彼等の伝説で、再びハワイに帰ってくると約束してハワイ島
を離れた農耕の神・ロノが自分達のもとに帰って来たと、クックをロノの再来として迎え
ました。 そのためクック一行はハワイで大歓迎を受け、船の修理や物資の調達も順調
に行われました。
 
一七七九年二月四日、クックはハワイ島を出発、再び太平洋の調査に向かいましたが、
間もなくリゾリューション号のマストが嵐のために折れ、その修理のためにケアラケクア
に引き返さねばならなくなりました。 しかしハワイ人は、クック達の長い滞在の間、その
もてなしや、物資の調達に力を尽くしたあとで、非常に疲れていたところへ、 クック達が
再び帰って来たので快く思いませんでした。
 
そして二月十三日にリゾリューション号の上陸用のボートがハワイ人達に盗まれるとい
う出来事が起こりました。  十四日朝、そのボートを取り返すために、酋長を人質にしよ
うと上陸したところ、いざこざが起こり、クック他四人の船員が殺害されました。
 
クックを失った一行は、二月二十二日にボートの修理を終えてラナイ、モロカイ、カ ホオ
ラベの島々を経て、三月八日ニイハウをあとに再び北太平洋に戻り調査を続けた後、
カムチャッカを経てアジア大陸の沿岸を通り英国に帰りました。
 
この第三次の航海は、一番の目的であった太平洋の北西部から大西洋に抜ける航路
を遂に見つけることは出来なかったのですが、ハワイ諸島を偶然に発見したことは、大き
な収穫で、クック自身も非常に誇りに思っていたことが、その日誌を通じても解ります。
 
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● カメハメハ一世が統一 (一七九五年)
それでは、クックが発見した当時のハワイはどのような状況にあったのでしょうか。 その頃、
ハワイではカウアイ島とニイハウ島、マウイ、モロカイ、ラナイ、カホオラ ベの諸島、それらに
オアフ島とハワイ島の四つの王国の間で互いに勢力争いが行われていました。 当時のハ
ワイには大変厳しい社会階級制度があり、しかも、それが厳しい宗教上のカプー制度と結
びついて、社会の秩序が保たれているという状態でした。
 
クックは当時ハワイの全人口は約三十万人との推定しています。 また、タロイモや砂糖き
び、椰子、さつまいも、バナナ等の植物が栽培され鶏、豚、犬などの家畜が飼われていた
他、島の各地では酋長たちの権力の象徴であった羽毛のケープや宗教上の大変立派な
祭祀場が見られたと記録しています。
 
島民達はハワイにはなかった鉄の存在を知っており、鉄で作った物を欲しがりました。 クック
達の船に上って来た島民達の中には、手当たり次第に釘など鉄製の道具を持って行こうと
する者があったという事です。
 
クックは、ハワイの島民が先に訪れたソサエティー諸島の島民達と全く同じ言葉を話 し、非
常に近い文化を持った人種であるという事に大変驚きました。 クックがハワイはじめ太平洋
の島々について書きのこした記録は、まだヨーロッパ文明の影響を受ける以前のポリネシア
文化を今に伝えるという意味で人類学や民族学上貴重な資料となりました。自然科学の上
からも、大変立派な資料の記録及びコレクションが行われています。
 
一七八〇年、クックの三回に亘る航海のオフィシャル・リポートが発表されると、アメリカ大陸
北西海岸のアメリカン・インディアンの間で毛皮が産出されていることを知った英国の貿易商
人達が、交易のため太平洋に進出するようになりました。キャプテン・ポートロック、キャプテン
・ディクソンなどが、一七八六年、米国北西岸で毛 皮を買い付け中国へ売るという貿易を
始め、その途中ハワイの港に寄港するように なりました。 そしてハワイの白檀の木も中国
へ売られました。 ハワイの白檀貿易は、 カメハメハ一世王の独占事業として、キャッシュ・エ
コノミーの源泉となりました。
 
その後一七八一年に、フランスのラベルースという探検家がマウイを訪れました。 キャップ
テン・クックの第二次、第三次航海に同行したジョージ・ヴァンクーヴァーは、一七九一年か
ら一七九五年の間に、四回に亘りハワイを訪れ、カメハメハ一世を始め各島の王や酋長達
との間に、親交を持ち、当時合戦のつづいていた島々に平和を説き、農業をすすめて野菜
や果物の種、山羊や牛などの家畜をハワイへ持ち込みました。
 
カムチャッカ、アラスカ方面へ航海するロシアの船も、やがてハワイに立ち寄る様になり、一
八一六年にはヴァン・コッブエという有名なロシアの船長が、ハワイに来ています。 その時
に同行したフランス人の画家コーリスによって描かれたカメハメハ一世の肖像は、現在カメハ
メハ一世の面影を伝える唯一のものとなっています。
 
長い間島と島との間で王達の勢力争いが続いていたハワイ諸島は、カウアイ、ニイハウ島を
除き一七九五年カメハメハ一世により統一され、ハワイ王国が成立しました。 カメハメハ一
世は先に述べました様に、ヴァンクーヴァーと親交を持ち、英国にハワイの保護を願い出ま
した。  しかし、英国としてはハワイが独立する事を望んだと言われています。
 
カウアイ島とニイハウ島も、一八一〇年に至り平和裡に統合され、ここにハワイ全島がカメハ
メハの支配下に入りました。一八一六年に制定されたハワイの国旗にはユニオン・ジャックを
あしらって英国に対する尊敬の気持ちが示されています。
 
一八一九年カメハメハ一世の死去により、古来ハワイ社会を支えて来た王制及び宗教の権
威は崩壊の危機に直面しました。 一八一九年から米国の捕鯨船団が三月から四 月頃太
平洋北方海域で鯨を捕獲、十月から十一月にかけて鯨を追って赤道付近まで南下し、ハワ
イに鯨油を下ろし、本国に送る中継地とする様になりました。 ラハイナや ホノルルには年間
四〜五百隻の捕鯨船が訪れるようになりました。
 
港にはそれらの船を対象とした商業や貿易が起こり、ハワイにキャッシュ・エコノミ ーをもたら
しました。 続いて一八二〇年にはエイサ・サーストン、ハイラム・ビン ガム夫妻など、米国
の組合教会派の宣教師達十四人がボストンからハワイに来て、カ メハメハ二世によって一
年間の滞在の後ハワイに於けるキリスト教の布教を許されま した。 一八二四年には二千
人がミッション・スクールに入ったと言われています。
 
ハワイ人達は宣教師から初めてアルファベットを習い、文字を持つようになりました。 宣教師
の婦人達は、特にハワイの女性達に生活指導を行いました。 これらの宣教師達の努力に
感銘した王や酋長達が率先してキリスト教に改宗したので、ハワイでは一八二八年までに
三万七千人、一八三一年には五万二千人がキリスト教徒になったと言われています。
 
それと同時にハワイ古来の宗教の偶像、或いは祭祀場の破壊が行われ、ハワイのカプー・
システムも、これによって完全に崩壊してしまったのです。 一八二三年暮、英国の事情を
視察するため英国を訪れていたカメハメハ二世及び王妃が、英国で病死し、 一八二五年に
二人の遺体が英国からブロンド号という船でハワイまで護送されてきま した。
 
その頃からフランスと英国の間では、ハワイに対する関心が非常に高まって来ました。  一方
ハワイの港を訪れる欧米の船によって、外国人との接触が多くなり、それによっていろいろな
問題に直面し、それらに対処する必要に迫られました。 その為に、第二 次宣教師団の一員
として、当時ハワイにいたウィリアム・リチャーズ牧師は、一八三 八年にはミッションの仕事を
離れてカメハメハ三世のアドバイザーとなり、政府機構や法律の確立の為に力を貸しました。
 
また、同じく第三次宣教師団の一員であったジャッド牧師も、一八四二年にはミッシ ョンを離
れてカメハメハ三世を助けました。 この様な人の力を得て、ハワイは早急に立権君主国とし
ての体制を整えました。
 
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● ハワイの独立
カメハメハ三世の代に入った一八二四年に、初めてハワイの港の秩序を保つための不文律
が出来ました。 続いて一八二五年には港湾条令が出来、一八三五年には最初の刑法典
が作られました。
 
一八四〇年にはハワイ最初の憲法が制定され、ハワイの全ての人々の権利を認める人権
宣言がなされました。 一八四二年に米国がハワイの独立を承認、翌一八四三年に英国と
フランスが承認しました。
 
一八四八年には有名なグレート・マヘレと呼ばれる土地改革が行われ、従来全土が王の
領地であったものを、二分して半分だけを王領とし、残る半分を酋長と平民に分配 し「領土
の生命は正義のもとに不滅なり」という有名なモットーによって、平民にも 土地の所有が許
される様になりました。 これによってハワイ農業が興り、ひいてはハワイの経済的発展に
導くようになった訳です。
 
それでは、当時のハワイ経済を振り返ってみることにしましょう。 一八一九年から 一八四
〇年にかけて、ホノルルは太平洋の真中に位置する唯一安全な港である上に、 船の修理
や食料の補給ができるために、沢山の外国船が入港するようになるに従い貿易や商業が
栄え、ハワイの現金収入も年々増えていきました。
 
しかし、当時のハワイの有職者の間では、このような季節的にしか入港しない外国船に依存
するハワイ経済のあり方について不安が高まりつつありました。 ちなみに、一 八四四年当
時のハワイの輸出入高をあげますと、輸入高が三十五万ドル、輸出高が十七万ドルとなっ
ています。
 
一八五二年から一八五九年にかけては、太平洋捕鯨の最盛期であり、鯨油輸送の中継地
、捕鯨船の物資補給地として、ハワイの経済もその恩恵に大いに浴したのですが、 一八五
〇年代も終わり頃になりますと乱獲によって鯨の数が減り、以前のような長期に亘る捕鯨が
次第に行われなくなったこともあり、ハワイに寄港する捕鯨船の数は減 少し始めました。
また、カメハメハ一世の時代には王家の独占事業であった白檀の輸出が、カメハメハ二世
の時代に各酋長にもその権利を与えたために乱伐が行われて、 白檀も涸渇をきたしてしま
いました。
 
さらに、一八五九年には、アメリカ本土で、石油資源が開発されたために、鯨油の需要が減
った上に、一八六〇年代のアメリカ市民戦争の煽りで、捕鯨船団の太平洋への進出がめっ
きり減ってしまいました。 そういった諸条件から、ハワイは益々国内資源による経済への転
換を迫られるようになったのです。 長い間ハワイは、一七七八年のクックの発見当時まで、
自給自足の資源にたよっていました。
 
一七九一年、スペイン人のドン・フランシスコ・デ・ポーラ・マリンという人が、カ リフォルニアか
らハワイに移住してカメハメハ大王の通訳となりました。 そして自分の農園をもって、新しい
農産物を輸入し、パイナップル、グアバ、ブドウ等の栽培を始めました。
 
一八〇二年には、ラナイ島に住んでいた中国人が、石臼で砂糖きびを搾って粗糖をつ くるこ
とを始めました。 一八二五年、ハワイの農業開発のために招聘された英国の農学士ウィル
キンソンがマノアに農場を設けて砂糖きびやコーヒーの栽培を始めましたが、彼の病死で中
断されました。
 
一八三五年、カメハメハ三世は、宣教師ブリンスメードの勧めで、カウアイ島のコロアにある
千エーカーの王領地を五十年リースで、ラッド・カンパニーに貸し与えました。 そこで、初め
て砂糖きびの耕地栽培が行われ、この他にコーヒー、バナナ、タロ いも等の栽培も非常な
成功をおさめました。
 
また、先にヴァンクーヴァーによってもたらされた牛が、ハワイで非常によく繁殖し、 一八四
六年には二万五千頭を数えるほどになり、一部を家畜化して牛脂及び牛皮 を輸出できるま
でになりました。
 
一八四八年にカリフォルニアでゴールド・ラッシュが起きると、ハワイの農産物の需要が急
増し、果物、野菜、砂糖、モラセス、米、コーヒー、皮革類などの輸出が一八 五四年から一
八七二年にかけてのハワイの主な収入源となりました。 一八五三年の輸 出高は二十七
万五千ドルでしたが一八七三年には百五十万ドルになり、一八六九年までずっと赤字であ
ったハワイの収支バランスがやっととれるようになりました。
 
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● 砂糖キビの栽培始まる
このように、ハワイの経済が農産物を主体とした輸出に依存するようになりますと、先のカウ
ワイ島コロアにあける砂糖きびの耕地栽培の成功によって、精糖業がクロー ズ・アップされ
るようになり、他の島々でも次々と砂糖きび耕地が開拓され、砂糖の生産高向上への努力
がすすめられました。
 
各島の耕地では、砂糖きびの栽培、収穫から、きびを搾って糖蜜、粗糖とする製糖工場を
中心としたコミュニティーが開け、活発化して行きました。
 
ところが一つ困ったことは、ハワイの人口問題です。 一七七八年クックがハワイを 発見した
当時、三十万と推定されたハワイの人口は、一八三二年の宣教師達による始 めての人口
調査では十三万人に減少しています。 その後、一八五〇年には八万人、一 八七〇年には
五万人と、人口は急激な減少を辿りました。 これは外国人が持ち込んだ 悪疫が抵抗力の
ないハワイ人の間に流行し、また乳児死亡率が高かったことによります。
 
例えば一八五〇年には僅か千四百二十二人の新生児の四分の三が死亡するという状態
で、ハワイ人の滅亡が心配されたほどでした。 このために砂糖耕地では労働者の不足に
悩まされるようになりました。 そこで、一八五〇年には、マスター&サーバント法 が成立し
て契約労働者を雇い入れることが合法化され、ロイヤル・ハワイアン・アグリカルチャー・ア
ソシエーションが結成されました。
 
二年後の一八五二年には初めて、中国人の契約労働者約二百人がハワイの砂糖きび耕
地労働者として導入されました。 その後、米国市民戦争でハワイの砂糖に対する需要が増
えたために、一八六四年にハワイ・プランターズ・アソシエーションが組織され、 積極的に海
外から労働者をリクルートするよう政府に求めました。 それで、同年にはハワイ政府に移民
局ができ、耕地労働者の補充とハワイ人口の増加という二つの目的 をもって、積極的に海
外からの移民導入に動き出しました。
 
一方、従来ハワイの輸出農産物、特に砂糖に対しては、米国が三〇%もの高い関税を課し
たので、一八七六年カラカウア王の時代に、米国と互恵条約を結び、それを契機にハワイの
精糖業が一段と発展するようになりました。
 
一八五七年の記録では、五つのプランテーションが約六百ポンドの砂糖を生産し、一八七五
年には、三十二か所のプランテーションから二千五百万ポンド、一八七九年に は耕地の数
も二倍に増えて、生産高は五千万ポンド、一九〇〇年にはその十倍、一九 二六年には三
十倍と大変に著しい増収を示しました。
 
一八五二年以来、多くの中国人移民がハワイに来ましたが、天然痘やライ病を持ち込み、
それに加えてアヘンを吸う習慣までもたらしました。 また、中国人はハワイの島 民の中にと
けこむこともなく、耕地契約が終るとすぐ耕地を離れて都会へ出て商売をする者が多い傾向
があったので、あまり耕地労働者としては適当でないと考えられるようになりました。 そこで
ハワイ政府では、日本の政府に移民の導入を働きかけるようになりました。
 
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● 一八六八年に初の日本人移民来る
ハワイ王国と日本の関係は徳川時代の末期、一八六〇年に日米修好条約調印のために、
ワシントンへ向かう途上の日本の外交使節団が緊急事態のためハワイに寄港した時にさか
のぼります。
 
日本側代表である新見豊前守正典、村垣淡路守範正、勝海舟、福沢諭吉、中浜万次
郎ら一行は、ハワイに十四日間滞在、その間カメハメハ四世に謁見、日布修交条約の締
結を希望されました。
 
一八六三年には、カメハメハ五世が日本と通商条約を結びたい旨の親書を送っています。
しかし、当時日本は幕末の混乱期にあったためいづれの申し込みにも積極的な態度を示
しませんでした。
 
ようやく一八六七年に入り、徳川幕府は、暫定的でいかなる拘束もしないという条件のも
と、日布臨時親善協定を締結しました。 この条約に基づいて、日本在中のオランダ系アメ
リカ人実業家ユージン・ヴァン・リードをハワイ駐日総領事に任命し、早速、 甘蔗耕地の日
本人労働者募集を行わせました。 この第一回の日本人移民百五十三人は 一八六八年
(明治元年)にホノルルに着いたので、元年者と呼ばれています。
 
この元年者募集の交渉に当った頃は徳川幕府でしたが、いよいよ移民者が渡航する時期
に至っては、明治新政府が誕生していました。 新政府は徳川幕府とハワイ政府間の今ま
での交渉を認めなかったので、窮地に立たされたヴァン・リードは正式の承認のないまま移
民を横浜からハワイに送りました。
 
元年者の一団は横浜を中心に募集された少数の武士をはじめ十三才で大酒飲みの、通称
まむしの市こと市五郎のほか、職人、髪結、料理人等で、入植直後から耕地での苛酷な取
扱いに対する不満や低賃金、高い生活物資などへの不平不満を訴えるようにな りました。
 
そこで翌一八六九年、日本政府は情況視察の目的で特別全権公使・上野景範をハワイ に
派遣しました。 その結果一八七〇年一月、元年者のうち四十人を日本政府の費用で送還
しました。 ハワイに留まった百八人の元年者の大部分はハワイ人と結婚して社会と同化し
ていきました。
 
一八七一年、日布修好通商条約が結ばれたことを契機として、ハワイ政府は日本政府に
対し積極的に日本移民の承認を説得し続けました。 一八七六年、日本の軍艦「筑波」がハ
ワイに寄港した際にもカラカウア王は伊藤艦長をもてなし、日本人移民を望んでいる旨、日
本政府への伝達を依頼しています。
 
一八八一年王は世界一周旅行の途中、日本に寄港、直接明治天皇に謁見し、数々の
重要な申し入れをしました。 その第一は、単独で明治天皇に日布親善の象徴として王の
姪にあたるカイウラニ王女と日本の山階宮定麿殿下との婚姻、第二に、日本がハワイに経
済植民地をおき、中心となってアジア諸国の結束を計り、欧米列強勢力に対抗して、将来
的には独立の立場と権威を確立しようという王の構想に日本が参画することでした。
 
さらに王は他国に先んじて日本における治外法権の撤廃を提案しました。 これらの申入れ
は日本側から丁重に拒否されましたが、両国間の友好関係がその後日本移民再開に大き
な役割を果たしたことは事実です。 一八八〇年代は、ハワイ政府がロバート・ アーウィンを
ハワイ政府の代表者としてハワイの甘蔗地へ日本人入植者を派遣することに努力を集中さ
せた時期と言ってよいでしょう。
 
一八八一年、ジョン・カナペ大使はカラカウア王の戴冠式の招待状をもって来日、ア ーウィ
ンを助けました。 一八八三年、日本政府代表はカラカウア王即位九年目にして完成したイ
オラニ宮殿で催された戴冠式に出席しています。  一八八四年、ロシアのアレクサンダー
三世の戴冠式に出席したカーティス・イアウケア・ハワイ代表が帰途、東京に寄港、移民交
渉を最終段階まで持ち込むことに成功しました。 イアウケアとア ーウィンは直ちに移民約定
書の草案を準備するためハワイに帰り、同年日本領事館がハワイに設置されました。
 
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● 一八八五年官約移民始まる
このようにして遂に一八八五年、その後のハワイの歴史に大きな足跡を残すに至った日本人
移民が二度にわたりハワイに送られたのです。 この頃、日本は失業、破産、暴 動、政変と長
期にわたり不安定な暗い時代が続いたため、一回移民には千六百名募集のことろ二万八千
人以上が応募しました。
 
乗船者数の限定もあり九百四十四人が選ばれましたが、その半数が山口県出身でした。 
というのは、当時の外相・井上馨が故郷山口県の人々の困窮した生活を理解し積極策をと
ったためと言われています。
 
しかし実のところ移民の決意はあくまでも冒険心、新たに課せられた兵役義務の回避、個人
および家庭の不満、あるいは単に契約期間中に金を儲けようという個人的なものでした。 そ
こで二年後には募集者は「純粋」の農民で、二十五歳から三十歳の期間中徴兵年齢に該
当する者は除外されました。
 
一八八六年日本政府とハワイ政府の日布移民渡航条約が東京で調印され、ハワイで批准
されました。 これにより日本人移民の権利が保障され、多数の移民がハワイに継続的に送ら
れました。 そこで一八八五年から一八九三年までの間の日本政府による約 三万人の移民
を官約移民と呼んでいます。
 
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● 私約移民の時代へ
一八九四年後半からは、移民の募集、輸送に関する一切の事務は移民会社からの強い要
請と、実際上の管理の煩雑さから、政府は遂に移民事業を民間企業に委託することにしまし
た。
 
一八九四年から一九〇〇年までのこの期間は私約移民時代と呼ばれています。 移民会社
が次々と設立され、十年間に約九万人の日本人をハワイに送りました。 会社の利益も莫大
なもので、ハワイ移民局日本人移民主任監督の中山譲治は、年俸六千ドルの地位を辞し、
日本で移民事業を開始したほどでした。
 
一八九八年頃までに、海外渡航合資会社など五つの主要移民会社によってハワイの移民
業務は独占され、移民に対する搾取も行われました。 移民会社の幹部には旧自由党や、
後に一九〇〇年に伊藤博文が設立した立憲政友会のリーダーとなった政界人も多 く含まれ
ており、移民会社の利益は政治資金となっていたことが考えられます。
 
ハワイの日本語新聞は一九〇五年、このような移民会社の不法行為に反対して革新同志
会を結成し、実態調査の報告書を東京の主要新聞に発表するとともに、日本政府に対して
移民会社や関連の京浜銀行の取調べを陳情しました。 その結果、京浜銀行は遂に外務省
の命令で営業停止となり、移民会社も続々と閉鎖に追い込まれました。
 
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● ハワイが米国の属領に
ハワイでは一八九三年、リリウオカラニ女王が廃位、ハワイ王朝が断絶し、一八九八 年、マ
ッキンレー米大統領によりハワイの米国合併が承認されハワイは米属領となり ました。
 
従って、ハワイでもアメリカの法律が適用され、一九〇〇年従来の契約労働が禁止されまし
た。 一九〇〇年以降はいわゆる自由移民として、一九〇七年までの間に約七万人の日本
人がハワイに渡っています。
 
この時期になると、三年間の契約労働を満了した人達が、更に米本土にも行くようになった
ため、アメリカの西海岸では中国人や日本人が急増し、地元の反感を買うようになりました。
 
やがて東洋人移民の排斥運動が高まってきたので、一九〇八年、日本政府は米国との間
で紳士協定を結び、日本人海外移民は、一度海外に出たことのある人及び海外にいる家
族のもとに行く者だけ、という条件つきで渡航を許可しました。
 
一九〇八年から一九二四年までの、いわゆる呼び寄せ時代には六万人の日本人がハワイ
に渡りました。 一九一〇年頃には先にハワイの耕作地で働いていた日本人男性のも とに
写真結婚で来た日本人女性が増え、契約移民時代に四対一であった男女比が、一九一
〇年には三対一、一九二〇年には三対二となりました。
 
一九二四年、日本人官約移民によりハワイ渡航が開始してからちょうど四十年目にし て、
米国議会は日本人移民のアメリカへの門戸を閉ざしました。 排日移民法による入 国禁止
まで、約二十万人の日本人が来布、ハワイの製糖業の耕地で非常に大きな労働力となり、
延いては現在のハワイの発展の原動力となったと言えます。
 
一九二四年、ハワイの日本人社会は、一九二〇年に世間を騒がせた日本人・フィリピン人
労働者による第二次合同オアフ島ストライキの影響も留めていた時です。 また、 日本語学
校問題に関しても議論が続いていた時代で、日本人社会は激しく対立、動揺 していました。
 
このようにして、日本人はハワイでの厳しい労働条件と、日本とはまったく違った生活環境の
中で、ハワイの経済発展のために大きな力となり、ハワイ歴史の中でも非常に大きな位置を
占めていると思います。
 
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