バックナンバー: 2006年 8月 15日

創刊30周年記念号

トップ: 30周年祝辞
 * ハワイ州知事 リンダ・リングル
 * ホノルル市長 ムフィ・ハネマン
 * 在ホノルル日本国総領事 岩谷滋雄
 
30周年記念寄稿
  私とイースト・ウエスト・ジャーナル
    --- ハワイ移民史研究家 ジャック・タサカ
バックナンバー: 2006年 8月 15日
● トップ: 30周年祝辞
 * ハワイ州知事 リンダ・リングル

ハワイ住民を代表して、30年間ハワイの日系社会に傑出した情報提供をしてきた 『イースト・ウエスト・ジャーナル』
の経営幹部とスタッフに、心からお慶びを申し上げます。
 
特に、ハワイの日本語社会の絶え間ない記録をしてきたことは賞賛に値します。詳細な最新ニュースや興味ある
話題、政治経済の分析、社会情勢、スポーツや娯楽記事は、我々の地域社会においてかけがえのないものです。
 
ハワイの日本語社会の貢献に、これからも益々ご活躍することをお祈りします。
 
 ハワイ州知事 リンダ・リングル
 
* ホノルル市長 ムフィ・ハネマン

アロハ。 ハワイの伝統ある日本語出版物の一つである『イースト・ウエスト・ ジャーナル』の30周年を心からお慶び
を申し上げます。
 
発行人であり社長の永井雄治氏と、勤勉なスタッフのプロフェショナリズムと 読者に対する貢献、教育・スポーツ・
ビジネス・その他の興味ある話題の詳細なレポートを褒め讃えたいと思います。
 
1976年以来、読者は、信頼のおけるレポートで、全国的かつ国際的なリーダーである貴紙の情報提供や娯楽
記事の恩恵を受けています。
 
ホノルル市郡の住民を代表して、これからも益々活躍することを期待します。
 
 ホノルル市長 ムフィ・ハネマン
 
* 在ホノルル日本国総領事 岩谷滋雄

この度、イースト・ウエスト・ジャーナル紙が創刊30周年を迎えられましたことを心よりお慶び申し上げます。
 
日本とハワイは長い交流の歴史を持っています。日本からハワイへの移民が明治元年に開始されて以来、当
地へは多くの日本人が移り住み、ハワイには確固 たる日系コミュニティが築かれました。 21世紀となった現
在も、毎年150万人以上の観光客が日本から訪れ、また約1万8千人もの日本人が滞在されています。 その
中にはハワイ永住を選択される日本人も多くいらっしゃいます。
 
このように日本とのつながりの深い当地で、ハワイと日本人の橋渡しをする日本語メディアの存在は大変重要
です。 イースト・ウエスト・ジャーナル紙は、過去30年に亘り、ハワイの政治、経済、自然、文化、歴史等の
様々な分野に亘る記事を提供され、日本語読者がハワイについての理解を深める手助けをして来られました。 
貴紙の、独自に掘り下げた、且つ当地の生活に直ぐ役立つ記 事が、当地日本人、日系人コミュニティのために
果たしてきた貢献の大きさは計り知れません。
 
イースト・ウエスト・ジャーナル紙が、過去30年の実績を基に、今後益々のご発展を遂げられることを期待いたし
ます。
 
在ホノルル日本国総領事 岩谷滋雄
 
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30周年記念寄稿
  私とイースト・ウエスト・ジャーナル
    --- ハワイ移民史研究家 ジャック・タサカ
永井雄治氏が主宰される日本字新聞「イースト・ウエスト・ジャーナル」が奮闘努力の甲斐あって、創刊三十周年
を迎え、今日の佳き日に、「記念祝賀 の特集号」を発行されることは、誠に慶賀の極みで、衷心よりお慶び申し上
 げ、併せて社員皆様の積年の苦労、不断の努力に対して、満腔の敬意を表し ます。 お目出度うございます。
 
ところで、今から十年前の一九九六年八月十五日に発行されたイースト・ウ エスト・ジャーナルの「創刊二十周年
記念号・サマー・スペシャル」に、「私とイースト・ウエスト・ジャーナル」と題する、長文の祝賀記事を寄稿 しています
が、その書き出しで、私は次のように記しています。
 
 
ハワイの日本人社会では古くから、「三号雑誌」という言葉が、よく使われま した。 「三号雑誌」の意味するところは
、前ぶれ大きく、華々しく創刊した、日本語の雑誌や新聞が、息切れして、二号三号を出しただけで廃刊して、姿を
消してしまう有様を指して言った言葉です。
 
そして、西暦一八八五年に官約移民のハワイ渡航が始まって以来、今日まで約百二十年の間に、百を超える日本
字新聞や雑誌が、次々に創刊され、廃刊となっています。 イースト・ウエスト・ジャーナルのように、同じ経営者によっ
て発行が続けられて、創刊二十周年を寿ぐものはごく僅かで、誠に貴重な存在です。 全てがスピーディに、目まぐる
しく移り変わる世の中で、二十年という歳月は、決して短いものではありません。


私は官約移民100年記念として出版した「ハワイ文化芸能
100年史」を有吉知事(右)に届けました(1985年10月25日)。

赤ん坊がうまれて、両親の不断の温かい庇護のもとに、すくすくと成長。やが て二十才の成人の日を迎えて、一本
立ちして、新しい人生に踏み出すまでの二十年の歳月は、短いようで極めて長いものです。 イースト・ウエスト・ジャ
ーナルにとっても、創刊以来の二十余年の歳月は決して平坦で安易なものではな く、山あり谷ありの長い道のりで
した。 その二十年間をこつこつと歩いて来たイースト・ウエスト・ジャーナルの発展の経緯や、イースト・ウエスト・ジャー
ナルの紙面に対する評価は、記念祝賀号で多くの方々が述べておられる通りです。
 
私が、イースト・ウエスト・ジャーナルの創刊以来、常に注目してきたことは 記事の選択や編集の如何にもまして「広
告の多寡」でした。 イースト・ウエス ト・ジャーナルが創刊された一九七六年頃のハワイでは、戦前から強力の地盤
と読者層を確保して、多くの広告主を抱き込んでいた「布哇タイムス」と「ハ ワイ報知」の二大日本字新聞が幅を利
かしていたので、その間に介入しての新聞の発行は、非常に苦労の多いものでした。
 
「布哇タイムス」や「ハワイ報知」などの既存の日本字新聞とは目先を変えて、新しいタイプ、新しい内容の新聞とし
て発足を迫られました。 そこでイースト ・ウエスト・ジャーナルでは、西暦一九五九年の「ハワイ立州」以来、進出の
目覚ましい、日本からの投資事業や、戦後にハワイにやって来た日本人を対象に、日本語による新聞を編集し、発
行することにしました。
 
そして、この着眼点と方針は見事に的中して、年を追って読者や広告主が増え続けて、イースト・ウエスト・ジャーナ
ルの地盤は固まりました。 これも偏に、社主兼編集人の永井雄治氏の秀れた先見の明と経験で裏付けされた編
集の才腕 と抜群の経営能力によるものであり、加えて内助の功の著しい愛妻の永井美砂 子夫人をはじめ、記者
で初代編集長のチェンバーズ厚子さん、続く川島みちさ ん、記者の松本千代子さん、邦文タイピストとして入社した
森本悦子、鈴木静江、笠原操さんらの編集スタッフの不断の努力、更に協力執筆者の貢献による ものでした。
 
そして、創刊当初は毎月、一日と十五日の二回、毎号十二ページの紙数も、二十年後には毎号三十二ページに
増大、購読者も年を追って増え続けていました。また、毎月、一日と十五日に発行する「イースト・ウエスト・ジャー
ナル」のほか、毎年一月一日には「新年特集号」、毎年八月十五日号には「創刊記念号」を定期的に発行。
 
さらに一九八七年からは、日本人観光客向けの新聞「イースト・ウエスト・ニ ュース・フラッシュ」を週三回発行。 加
えて、「電話番号早見表と暮らしの便 利帳」(現在、ハワイべんり帳として継続)、「新ハワイ百科」、「イースト ・ウエ
スト・ジャーナル縮刷版」、「ハワイ文化芸能百年史」、「がんばる新 一世」、「駆け出し記者五十年」など、数々の
出版物を発行。 創刊二十周年を 迎えた「イースト・ウエスト・ジャーナル」は正に、ハワイを代表する進歩的に日本
字新聞として、内外人の期待と信頼を集めています。


日本経済バブル期に発行して大好評を得た、観光
案内が一行もない300頁の「新ハワイ百科」3版

「ローマは一日にして成らず」と言われ、どんな事業でも、強い意志とねばり 強さと不断の努力がなくては、完遂で
きるものではありません。 新聞事業に一生を懸ける永井雄治氏は二十年という一つの節目を迎えました。 それは
決して、平坦・安易なものではなく、茨の道でした。 よく艱難辛苦に耐えて、一つの峠を越えました。
 
どうぞや、創刊二十周年を契機として、初心に返って、ますますの精進・飛躍 を切望してやみません。 重ねて「お
めでとう」と、創刊二十周年の慶事を祝し、スタッフご一同のご健勝と益々の御活躍を心から祈り上げます。
 
 
以上は、今から十年前の一九九六年八月十五日に発行された、「イースト・ウエスト・ジャーナル」の「創刊二十
周年記念号」に寄せた、「私とイーストジ ャーナル」と題する私の思い出の記の一節です。
 
この記事を書いた一九九六年には、私は八十二才で、後数年の命と覚悟していました。 それが、あれから十年。
命ながらえて、今や九十二才。 「イースト・ウエスト・ジャーナル」の創刊三十周年を寿ぐなど、夢想だにしなかった
ことです。 今回は、私と「イースト・ウエスト・ジャーナル」との掛り合いを回顧してみたいと思います。
 
私が「イースト・ウエスト・ジャーナル」と、文筆を通じて深い関係を持つよう になったのは、昭和六十年=西暦一九
八五年からのことでした。 この年(一九八五年)は日本人官約移民のハワイ渡航百周年に当たるところから、その
記念事業の一つとしてイースト・ウエスト・ジャーナルから、私が長年に亘って取材・蒐集した写真や資料を基に執筆
・編集した「ハワイ文化芸能百年史」を発行して貰 いました。
 
また、一九八五年四月十五日号から「移民百話」の連載を始め、一九八九年十二月十五日号まで、四年半に
亘って百八回、書き続けました。 その他、一九八九年八月十五日号から八回に亘って、「写真は証言する! 古
き良き時代のハワイの日系社会」と題して、古い貴重な写真についての解説を連載。次いで一九九〇年一月 一
日号から一九九一年八月十五日号まで三十七回に亘って「ハワイ今昔物語」を連載。
 
更に、一九九一年九月一日に発刊された、イースト・ウエスト・ジャーナルの「新ハワイ百科」の改訂第三版に、私
は「ハワイ日系移民発展史」と題して、明治元年(一九六八年)にハワイに来航した百五十三名の「元年者」を原
点として、官約移民時代、私約移民時代、自由移民時代、呼び寄せ移民時代、移民禁止時代、第二次世界
大戦時代、日系二世の抬頭と戦後一世時代の八つの時代に区分して、平成三年(一九九一年)までの、約百
三十年間の、ハワイにおける日本人の発展の足ど りを、約三十ページに亘って執筆・寄稿しています。


平井喜平氏(左端)の仲介で、ハワイ日本文化センターへ「ハワイ文化芸能100年史」、「E.W.J.縮小版
全25刊」等を寄贈した。小谷理事長(左から2番目)に手渡す永井雄治発行人(その右)。(2001年5月)

その後も私のために毎号一頁を取って貰い、「ハワイを彩る日本人」、「まぼろしのハワイ民謡・ホレホレ節」、「ハワ
イ日系百年史」「私の思い出の記」、「思い出の写真で綴るハワイの芸能界」、「モイリリ日本人町百年の歩みを
巡る」など、二〇〇三年十二月十五日号まで、私が目が悪くなり、執筆が困難になるまで続きました。
 
私が、「イースト・ウエスト・ジャーナル」に連載を始めた一九八五年は当年七十一才で、最後の連載を行った二〇
〇三年には数え年九十才で「よく身体が持てたものだ」と、自分ながら感心したものです。 そして、私が足掛け二
十年の長きに亘って、中断することなく「イースト・ジャーナル」にハワイの日本人移民史を連載できたことは「遺す」
ことに深い関心を持っている永井雄治社長の格別の御厚意によるものと、有難く感謝しております。 そして、私が「
イースト・ウエスト・ジャーナル」に寄稿した全ての文章は、イースト・ウエスト・ジャーナルの「縮刷版」に納められてい
て、非常に光栄なことと感謝しています。
 
私は、二〇〇四年四月から十二月まで、KZOO放送局を通じて、毎週サンデーの午後に一時間に亘って「ハワイ
物語」を連続放送しました。 そしてハワイ全島のKZOOファンの皆さんから好評を受けたお陰で、今年二〇〇六年
の一月から「続ハワイ物語」 を再開して、十二月まで連続放送することになりましたが、この「ハワイ物語」の 材料
は全て、イースト・ウエスト・ジャーナルの「縮刷版」に掲載されている、私の手記を基に編集されたものです。 
重ね重ねの恩沢に深く感謝しています。
 
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