バックナンバー: 2006年 1月 1日
● トップ: 新春企画 --- 国際結婚を探る
   国境を越えた日本女性6人の生き方
● 第8回「ソニー・オープン・イン・ハワイ」
 ・ 1月12日から1月15日までの4日間ワイアラエカントリークラブで開催
バックナンバー: 2006年 1月 1日
● トップ: 新春企画 --- 国際結婚を探る
    国境を越えた日本女性6人の生き方
 
「心の片隅を冷たい風がすうーっと通り抜けていくような気がすることがよくありました」と今年八十才を
迎えたこの女性は、亡くなったご主人と連れ添った長き人生への思いをこの一言に託した。
 
これ以上のことは語りたくないとインタビューを引き受けてくれなかった彼女は戦後間もなく国際結婚に
踏み切った数少ない勇気ある日本女性のひ とりだ。 当時ハワイ日本間は船で通う世の中だった。 飛
行機はあるにはあったが、旅費は家が一軒買えるほどの値段だった。 そんな時代にふさわし く、慎ま
しやかで、人の心を思う彼女は「まだ彼の親戚もたくさん残っていますし...」迷惑はかけたくないから、
自の国際結婚は語りたくない と言う。 当時は国際結婚をした女性は「特殊な商売女」と見られることが
多く、悔しい思いをすることもまれではなかった。
 
しかし皆が皆そうでないことは明らかなこと。この女性は実は立派な地主の家庭のお嬢さんだった。 花嫁
修業のお茶やお花に通う静かな生活から突然一九五〇年代のハワイへと嫁ぐことになったその由縁は何
なのか。 固く口を閉ざした彼女の人生は波乱万丈なものだったに違いない。 戦後間もなく国際結婚した
女性のイメージはもうあまり残ってはいない。 そのイメージを意識しない者、更には知りもしない若者が国
際結婚をする世の中にな ってきている。 「Japan-US Discussion Forum」の統計によると、国際結婚は
過去三十年で六・五倍に増加、七〇年代、八〇年代で急激に増えている。 七〇年代は五千五百四
十六件だった国際結婚は二〇〇〇年には三万六千二百六十三件とまでなった。
将来日本はもっと多人種の社会となるだろうと予測されている今日、日常の会話では「国際結婚」という
言葉さえもあまり聞かなくなっている。 特にハワイでは日本人の間で、配偶者がアメリカ人と分かっても
「あなた、国際結婚なの?!」と驚く人はほとんどいない。 戦後当時も今も、人生はその時代の社会情
勢、文化、価値観、そしてその人の置かれた環境を反映 している。 人生、人それぞれ。 以下数人、イ
ンタビューに応えてくれた女性の話から国際結婚をした彼女たちの、各々人生を垣間見ることができた。
 
ハートフォードひろみさん(仮名)
正式に結婚証明書をとってからまだ二週間しかたたないひろみさんは、ワイキキにある「お見合い相談所」
を通して、二年前にご主人と知り合った。 今は十三才になった娘さんが赤ちゃんの時、前のご主人と離婚
して「それ以来娘と私はセットです。 再婚相手も子育てを経験している人が第一条件 でした」と語る。
 
お見合い相談所から紹介されたたった四人の中で、子供のいる唯一の男性 だったので彼に決めました。
あんまり色んな人と付き合ってみたくはなかったので、すぐ決めちゃったんです。 でも彼にとっては、私は
二十四人目 のお見合い相手なんですよ」と少しうれしそう。 しかし新婚早々なのに、そういった明るさが
ない。 相手に子供がいることがプラスの条件と思ったのに、それが仇になっている。
 
ご主人の娘さんは十六才、単なる思春期といって済まされないほどのシリアスな問題がある。 「カウンセリ
ングに通っているなんて主人は一言も言ってくれませんでした。 一緒に住みだしてから大変なことが分かっ
たんです。 私の洋服をどこかへ持っていってしまったり、娘の大切にしているCDをこわしてしまったりして...。
人には言えないようなもっとシリアスなこともするんですよ... 自分を傷つけるの...」。 時々目尻にうっすら涙
が浮かぶ。
 
「CDは娘が一生懸命おこずかいを貯めたお金で買ったんです。主人は同 じ物を買ってきて、あやまるでも
なくホラっと娘に渡しました。 物で返せ ばいいってもんではないでしょう」。 日本人の繊細な気の配りや、
優しさがないことがつらいとも言う。 結婚して条件つきのグリーンカードがもらえた。 二年経てば本式のグ
リーンカードがもらえる。 「それまで我慢して彼 といます」その後はまた考え直すそうだ。 相手の娘さんと
一緒の生活は あまりにも大変なので、ご主人がワイキキにホテルをとってくれ娘さんと 二人で別居生活を
始めることになった。 新婚二週間という早さで。
 
それでも悔いはないという。子供がたった十三才でアメリカに住めること、英語を流暢に話せるようになれる
こと、アメリカの文化が学べること等は彼と結婚していなければ、とても出来ることではない。 それを思うと
決して失敗ではなかったと言うひろみさんは、いとおしそうに娘さんを見ながら、「日本人として育たなくても
いいんです。 日本の文化や、歴史なんか知らなくてもいいんです。 ただ日本人の優しさがあって、人の気
持を思い やることの出来る人間になってもらえればそれでいいんです。 優しく、美しく生きていってほしいだ
けです」と言って、控えめに微笑んだ。
 
カーク瞳さん(仮名)
瞳さんは日本語教師になりたくて、ハワイ大学の大学院で日本語教授法の 修士をとるためハワイにやって
来た。 一九九四年のことだ。 「子供の頃は横浜に遊びにいくと外人を見かけて、恐いなんて思っていました
。 四、五才の頃です」。 だからハワイに来た当時はアメリカ人との結婚など頭にはなかった。
 
「でも東京での大学時代にはアメリカの映画や音楽は大好きでした」と瞳さんはハワイ大学のオフィスで話し
てくれた。 ハワイ大学の東アジア言語・文学部の学生は圧倒的に女性が多く、日本人男性はほとんどいな
い。 自 然とアメリカ人と付き合うようになったという。 そして二〇〇〇年に今のご主人と結婚に踏み切った。
付き合い始めた頃はカルチャーショックが多かった。
 
「何か傷つくようなことを言われて、泣いても謝ってはくれませんでした。 日本人だったら、女性が泣けば、男
性はゴメン、ゴメンと謝ってくれます」。 彼はきっと自分は悪気で言ったのではないのだから、傷ついたのは
自分ではなく相手の問題、瞳さんの問題なんだ、と考えているに違いないと分析する。 「謝罪の文化」とも
言われる日本、「すみません」とまず頭を下げて、摩擦を避けることを重視する日本人社会と、訴訟や裁判
の蔓延る社会で「謝ることは自分の非を認めること」とされるアメリカ社会との文化の違いがこの二人の人間
関係にも現れている。
 
テレビで "Reality Show" (俳優が演技をするのではなく、視聴者が参加して創った番組)を見るだけでも
カルチャー・ショックを感じるという瞳さんは、アメリカ本土にはけっして住みたくはないと言う。 「でも最近は
彼も謝ってくれます。 心の底から悪いとは思っていないみたいだけれど...」 と言って苦笑した。
 
初めの頃は自分の結婚は「国際結婚」と意識したけれど、今はその感覚はない。 ご主人と自分の相違点
を国籍や文化の違いと思ってしまうと歩みよれない気がする。彼は彼という一人の人間、私は私という一人
の人間、その二人の間のギャップにすぎないと思えば楽に歩み寄れると瞳さんは説明する。 「二〇〇〇年
に結婚した時、五年続くかな、続かなければ別れてもいい...と思って結婚しました」。 子供もまだなく、アメリ
カ本土の北東部バーモント州出身のご主人の家族ともほとんど付き合いがないので自分のアイデンティテ
ィーも特に揺るがされることもない。
 
ハワイ大学の日本語科では日本人との接触も多い。 日本人としていつまでもいたいと思っている。 しかし
日本を出て十年経った今、日本の社会では窮屈になってきているそうだ。 日本を離れて外国に住むことの
良さは自分の育った文化や、職業柄、自分の言語を見直すことが出来るようになること。 「初めはあさはか
にもアメリカ人の主人だから、お花やプレゼントを買って来てくれたりして、ロマンチックな生活になるんだと期
待していました。 とんでもない、彼はお誕生日さえ覚えていてくれないんですよ。 でも誠実でまじめな人な
んです。 だからこれで良かったと思っています」と 話してくれた。
 
スミス達子さん(仮名)
達子さんの結婚相手はアメリカ人だが、白人ではなく、また米本土で育った人でもない。 ご主人の父親は
ボストン出身の白人のアメリカ人で母親は韓国人なので、彼はハワイで言うハッパ・ハオレだ。 ご主人の育
ったのは韓国のソウルで、十四才になって初めてアメリカの一州であるハワイに移り住んだ。 その彼とは
達子さんがホノルル市のJAIMS(日米経営学研究所)に留学中に知り合って一年のお付き合いを経て
結ばれた。
 
「アメリカ映画が大好きで良く見ていました。 私が六年生の時、父が長男のためおじいちゃんとおばあちゃ
んと一緒に住むことになり、そのため母が大変苦労したのを覚えています。 日本のしきたりや親子関係の
大変さをみて育ったためか、日本人との結婚は避けたい気持ちは確かにありました」 と語った。 達子さん
はあっさりと自分は日本人との結婚は避けたかったと認めた。 国際結婚をしている人が、初めから日本人
は避けたかったと認める人はあまりいない。
 
でも国際結婚を選ぶ日本女性は何らかの理由で日本から出たい気持ちがあ るのではないだろうか。 十
四才と十才の二児を持つ達子さんは日本でのお母さんの昔の苦労こそ逃れたが、「彼が日本で会社をも
っているので、私と子供はハワイの生活、かれは東京とホノルルを行ったり来たりの生活です。 だから子
供の事、家のことはほとんど私が一人でします。 とっても大変」だそうだ。国際結婚の利点は自分の視野
が広がったこと。 アメリカのことも韓国のことも深い興味や理解を持つようになった。 短所はお互いに共通
した過去がないこと。 例えば昔見たテレビの番組の話が出来なかったり、子供の頃の遊びの話等が出来
ないことだと言う。
 
ベイリー英子さん
英子さんは最近ニュージャージーからホノルルに引っ越して来た。 親戚がいるわけでも、親しい友人がいる
わけでもないのに、アメリカ東部の一州から、アメリカで最も西の州のハワイまで引っ越して来た事には、深
いわけがある。 「主人とは彼の仕事の関係で日本で知り合いました」と語り始 めた。最初は彼のことを「外
人だ」と意識したが、ユーモアがあり、皆を笑わせたりする爽やかな人とも思った。 グローバルな観点から
話をすることや、「食べる物を選ぶ時でも、なんでも私にチョイスを与えてくれたことで、日本人の男性とは違
うなっと思いました。 それが魅力的だったんです」。
 
付き合い始めてから二年目に求婚されたが、両親から猛烈な反対をうけた。 「初めは外人だからだめという
ことだったんですけど、そのうち彼の人間性までだめだなんて言われて...」。 百ポンドはないだろうと思わせ
るスリムな英子さんは、親の反対を押し切って国際結婚するような女性にはとてもみえない。 でもご両親か
らの強い反対は英子さんを両親から遠のけ、彼に近づける結果になった。 そのご両親も五年めに孫が生ま
れると、ころっと変わった。
 
日本での勤務を終えた後、ご主人の都合でサンフランシスコ、シカゴと引 越し、やがてニュージャージーに
落ち着くまで、「母も遊びに来てくれ、いろんな町で一緒に過ごし、本当に楽しかった...」と思い出す。 そして、
二児の母親として幸せに暮らしていた英子さんに全く予期しないことが起こった。 「ある日突然風邪だと思っ
ていた症状が悪化し、健康そのものの主人が数日の内に亡くなってしまいました」。 まだ四十代のご主人が
急死した。 ニュージャージーでのことだった。
 
「私は英語もそれほど出来ませんし、彼が何でもしてくれたので、まかせっきり、頼りっきりの二十年近い結
婚生活でした」と声をつまらせて話した。 「彼の家族や隣人等に助けられて、なんとかもとの生活に戻ったと
はいえ、ニュージャージーの生活はとても自分だけでは、やっていけないと思い始めたのです」。それで英子
さんはよく休暇でご主人と訪れたハワイを想った。 ハワイは日本に近いし、ニュージャージーと違って日本人
も多い。 子供をかかえた女一人には住み易い所のような気がした。迷う気持ち もあったが、思い切ってまだ
建設中のマンションを買い、ハワイに引っ越す大決心を即座行動に移した。 住み慣れた子供の育った邸宅
を売り、使い慣れた家具を始末して、「無我夢中で気がついたら、ハワイに来ていました」とため息をつく。
 
引っ越すことに決めた時、息子さんの大反対にあった。 彼にとっては、ニ ュージャージーは自分の故郷、友
達もたくさんいる。 息子さんの不満も確かに一理あった。 その息子さんも最近、無事希望校のカリフォルニ
ア大学に入学し、英子さんは一安心の様子。 そして娘さんはプナホウ校に転校できた。 ではすべて落ち着
いた今はというと...「秋になっても秋らしくな く、ハロウィーンでも落ち葉もなく、もうすぐクリスマスというのにちっ
ともそんな気がしない。 娘はお友達もなかなかできず、ニュージャージーの友達に電話ばかりしています。
ニュージャージーに帰ろうよ、帰ろうよ と娘に言われます」。
 
そういう英子さんだが、ニュージャージーでの将来はとても想像できない。  「老後のことを考えるとやはり、
距離的にも精神的にも日本に近いハワイがいいと思います。 主人のいない今、やがて子供たちが育ってし
まって自分一人になった時、どこが自分に一番適したところなのかを色々考えました。 アメリカ人として育っ
た子供のことなども考えあわせると、自分の居場所は日本でもなく本土でもなく、やはりハワイが一番いい
のではないかと思っています」。
 
ご主人の亡くなった時、病院で生死に関わることに対する決断、保険のこと、法律的なこと等々、分からな
いことだらけに対処しなければならなかった。 「言葉では表せないほど大変でした。家族や友達に助けられ
てなんとか乗り越えました。 日本にいたらあんな苦労はしなくて済んだんですよね...」とまだ淋しさから抜けき
れない面持ち。 国際結婚故に架された運命 、特に配偶者を先に亡くした人が出合わす宿命なのだろうか。
 
フロィリック久子さん
「日本での生活よりハワイでの生活のほうがずっと長いんですよ」と言う久子さんは、もともとはハワイ大学
への留学生として、日本を離れた。 大学卒業後、不動産関係の仕事をし始めてからもう暫しの年月が
経つ。 高級豪華マンションの開発のための市場リサーチから、建設プロジェクトに関するすべてのコンサ
ルティング、更には売却まで扱う。 その道ではベテランの久子さんは少し遅めの結婚をした。 相手はドイ
ツ系アメリカ人。 二人を別々に知っていた友人がこの二人はぴったりのカップルになると信じて紹介、めで
たくゴールインとなった。 「彼はハワイで弁護士をしてきました。 十代の時に家族とドイツからアメリカに移
民して来た人なんです。 ドイツ人と日本人って結構相性がいいんですよ」と朗らかに話してくれる。
 
「自分の結婚を国際結婚と意識したことはありません。 普通の人間同士が結婚したって感じ。 ただ自分
のアイデンティティーに関しては宙ぶらりんだなと感じます。 日本人なんだけれども、今の時代の日本人
じゃない。 三十数年前に日本を出てきた日本人です。 母や兄嫁とかと話してもすべてのコンセプトが違う。
でも違いを認め合って、良いとか悪いとかに拘らず、あっさりした関係」だそうだ。 「でもね、モダンな母なん
ですけど、愚痴 を言うこともあります」と付き加えた。 自分は今は本当の日本人でもない し、ローカルの
人間でもない、だからハワイに長く住むハワイへの「移民」 と気が合うそうだ。 日本人「移民」に限らず白人
の「移民」の友達も多いと言う。 ご主人ともそういう所で繋がっているのだろうか。
 
子供がいないせいか二人とも「インディペンデントで、私は仕事でとっても忙しいですし、今はリタイヤーした
彼も趣味ややりたい事がたくさんある人ですから、お互いに一日が終わって、ほっとした時に夕べを一緒に
過ごすのが楽しいんです。 週末も私はショッピング、彼は図書館で静かな時間を過ごしたりして、その後
一緒にといった感じなんですよ」と説明する。
 
ハワイキ・タワー、ナウル、ホクア・コンドミニアムなどのプロジェクトに挑む久子さんは仕事が楽しくてしょう
がない。 「仕事が生きがいなんです。 でも最近は仕事というものがなくても満たされて生きていけるような
方向に持っていこうと心がけて、努力しています」と言う久子さんの生活、久子さ んの人生、ひいては久子
さんのハートの何処にご主人は位置しているのだろう。 「私、仕事、仕事ばかり言っていますけど、これも
彼がいるから安心して、自分の好きなことに集中できるんだと思います。人生を共に歩んでくれる彼がいる
、それだからこそ仕事にも励むことができるんだって分かっているんです。 もし彼がいなかったら...」と、ふと
言葉が少なくなった。 久子さ んにとってご主人の存在は想像以上に大きなものなのかもしれない。
 
ジョンソン・ノヘラニ 信子さん(仮名)
信子さんは五十歳になったと言うが、日焼けしてスリムな容姿はとても中年に仲間入りした女性にはみえ
ない。 腰まである黒髪がハワイにふさわしくエキゾチックな雰囲気を醸し出している。 ノヘラニというハワイ
語の名前は、自分でつけたという。 結婚したアメリカ人のご主人が外交官になられ、ご主人の国でない
外国で生活することがほとんどだ。 これまでに住んだ国々は、エルサルバドール、グアテマラ、中国、イタ
リアと様々だ。 そこでアメリカ を代表するお仕事をするご主人をサポートしながら、公式の場にもアメリカ
人の夫人として出席し、しかも自分自身は日本人という複雑な立場にある。
 
そういう経験を十数年続けてきた信子さんは人一倍「セルフ・アイデンティ ティー」の問題を考える立場に
置かれたに違いない。 ノヘラニというハワイ 語の名前を持つことの必要性もその辺から生まれたのだろう。
 「大学を出てすぐアメリカに来ました。 日本では社会人としての生活はしていないのです」。 二十歳そこそ
こで日本という国を離れてしまった。 人間形成の大きな要因 は社会とのつながりだ。 社会の中で冠婚葬
祭を体験し、生活していくことで、その社会、その文化、ひいてはその国の人間であるといえる。 「アメリカ
ではアメリカ人として生活しています。 でも日本は離れている故に懐かしい。 アメリカでは、日本人として
プライドを持っています」と信子さんは話す。
 
「アメリカ人として毎日生活しているわけですから、普通の日本人とは違う。 ある意味でハワイの日系人
のようなのかもしれない。 だから自分の「ジャパニーズネス」を出して、プライドを持つようにしています。 
アメリカでアメ リカ人と同じように生活しているのですからそれも出して、それで自分のアイデンティティー
を持ちながら生きています」と一言一言噛み締めるように話す信子さんは、「若い時は、自分はいったい
何なんだろうかと考えることもありました。 三十年以上も海外生活をしている自分は日本人であって日本
人じゃない。 でもアメリカにいても、日本にいてもどちらに行っても提供する物が自分にはあると気が付い
たんです。
 
二つのカルチャーを自分の中でミックスさせ、消化させてきました。 それが 私の生き方、そして自分のア
イデンティティーとなりました。 海外にいても、常に日本のことを考えながら生きている。 外国人の目から
日本を見ることもできるようになったんです」と話してくれた信子さん。 自分の名前をハワイ語のノヘラニと
変えただけあって、自分の置かれた環境に進んで馴染み、それをフルに生かして人生を歩んでいる。 前
向きの姿勢で、く生きる彼女は、故郷を離れ、外国人と結婚する日本女性の根強さを象徴しているようだ。
 
 
ほんの数人にお話を伺っただけでも明らかなことは、「国際結婚」とひとこ とで言っても、いかに一つ一つの
結婚がユニークなものであるかということだ。 それでいて皆に共通して言えることは、国際結婚をしたため
に自分の文 化を越えて、知識や視野が広がったことだろう。
 
更に、国際結婚は文化の差のみならず、人間としての個人差に対しても、寛 容な人間に成長できるチャ
ンスのようだ。子供のある人にとっては、自分の子供が半分は自分の人種や文化を背負い、半分は夫の
人種や文化を背負っているために、どちらの国をも大切にせねばならない境遇にある。 また予期しない深
刻な事態が生じる場合もある。 そういった数々の問題を投げかけてくる国際結婚、それをどの程度真摯に
捕らえる、捕らえないは個人差による。 どちらにしても国際結婚の体験が国際親善につながるポジティブ
なものであってほしい。
 
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第8回「ソニー・オープン・イン・ハワイ」
 ・ 1月12日から1月15日までの4日間ワイアラエカントリークラブで開催
二〇〇六年の初頭を飾るビッグイベント、第八回「ソニー・オープン・イン・ハワイ」 が、一月十二日(木)
から十五日(日)の四日間、ワイアラエ・カントリークラブにおいて、最高の賞金総額五百十万ドル、優勝
賞金九十一万八千ドル(約一億一千万) をめざし世界のトッププロが競い合う。
 
昨年の優勝者ビージェイ・シンを始め、ポール・エージンガー、デビット・トム、トム ・レーマン、ブラッド・ファ
クソン、ジム・フェーリック、スコット・シンプソンなど 世界のトッププロが参加する他、地元ハワイの十六才
の天才少女ゴルファーのミッシェ ル・ウイがLPGAのプロとしてソニー推薦で出場する。 また、日本勢とし
ては、丸山 茂樹、田中秀道、今田竜二、横尾要、丸山大輔、高山忠洋、宮里聖志、宮里優作、
デビ ッド・イシイらが参加する。
 
決勝ラウンドの十四日(土)は午前七時三十分から、最終日の十五日(日)は午前八時 三十分からの
スタートで、四日間ともESPNテレビが生中継する。 日本への中継は、NHK衛星第一とフジテレビが行う。
 
■ ソニー・オープン・イン・ハワイ
 ◎ 一月十二日(木) 第一日予選ラウンド
 ◎ 一月十三日(金) 第二日予選ラウンド
 ◎ 一月十四日(土) 第三日決勝ラウンド
 ◎ 一月十五日(日) 最終日決勝ラウンド
 
■ ミリオンダラー・ミラクル・コンテスト
一九八三年二月十三日のハワイアン・オープンの最終日、トーナメントリーダーのレナーを1打差で追い
上げていた青木功選手が、最終ホールの18番(パー5)で第3 打をグリーン手前百二十八ヤードのラフ
からスーパー・ショット、グリーン上でワンバウンドして吸い込まれるようにカップインしイーグル。

あの劇的な逆転優勝は今も語り継がれているが、あの百二十八ヤードからのショッ トでホール・イン・ワ
ンすれば百万ドルを獲得出来るというコンテスト。 この予選会 が一月八日(日)午前九時からワイアラエ
CCにおいて行われる。 この予選会でホ ール・イン・ワンないし、小さなサークル内に入れた人が、一月
十五日のソニー・オ ープン最終日の競技終了後の午後五時十五分から、青木選手が第三打を打った
同じ距離から百万ドルを賭けて挑戦することになる。

もし誰もホール・イン・ワンしない場合は、もっともホールに近い人が、その場所か ら、ワンパットで入れた
人には、ソニーから特別賞が贈られる。
 
■ ソニー・ドリーム・カップ(ソニー・プロアマ)
ソニーの創業者である故・盛田昭夫名誉会長、故・井深大名誉会長を讃えるプロアマ・ コンペから発展
したトーナメント。 招待者百十四名とプロ二十八名によりワイアラエC Cにおいて、一月十一日(水)午後
十二時ショットガンスタート。 この授賞式とディナーは、カハラ・マンダリン・オリエンタルにおいて、午後六
時から行われる。 ステージでは地元エンタテイナーのHAPAが数々のハワイの歌を披露する。
ソニー関係者招待のみ。
■ 本戦プロアマ
本戦プロアマの組み合わせ抽選会が一月十日(火)午後六時三十分からワード・シアタ ーにおいて行わ
れる。 パーティー及び抽選後は、ソニーピクチャーの未公開映画「ザ・ ピンクパンサー」が上映される。 
そして翌十一日(水)の午前七時から本戦プロアマは スタート、その授賞式は翌日の十二日(木)午後
六時からヒルトン・ハワイアン・ビレ ッジ・コーラルボールルームにおいて催される。 このパーティーでは、
午後九時からソニーミュージック所属のスーパースター、ライオ ネル・リッチーがステージに立つ。
 
■ ソニーオープン・チャレンジカップ最終戦
一月十日(火)、パールCCにおいて午前七時から、関東、北陸地区など各地で四百五十名が参加して
行われた予選会を勝ち抜いてきた三十名が、最終戦を行う。
 
■ ソニー・サテライト・プロアマ
一月十一日、パールCCにおいて午後十二時より、ソニー招待客、フジテレビ招待客、 ローカルのプレーヤ
ーとPGAプロの親善プロアマが行なわれる。
 
★ チケット料金
 *ウィークデー1日パス --- 十五ドル
 *シーズンパス(通し)--- 五十ドル
 *十二歳以下は無料
 *月・火は無料
 
★ チケット販売先
 *ファーストハワイアンバンク(各支店)
 *ユナイテッドエアライン(チケットオフィス)
 *ワイキキトロリーバス(ワードセンター及びワイケレSCのインフォメーションデスク) 
 * 各プロゴルフショップ 
 * ソニー・ディーラー
 
★ 問い合わせ先 --- A Friends of Hawaii Charities Event
 *電話:808-523-7888
 *ファクス:808-529-7098
 *http://www.sonyopeninhawaii.com/
 *E-mail:
friend@friendsofhawaii.org
 
駐車場はワイアラエCCにほど近いHunakai Park、通称 Triangle (Fort Ruger)Park (トライ アングル パーク)、
KCC(カピオラニ コミュニティカレッジ)の駐車場が利用出来る。 それぞれの駐車場から無料シャトルバスが
ピストン運転される。 また、ワイキキから、一月九日から十五日まで朝七時から午後七時まで一日十二時間、
無料の(ワイキキ トロリー)が、 三十分毎にヒルトン・ハワイアン・ビレッジ・ホテルをスタートし、シェラトン・ワ
イキキ・ ホテルを経て、カラカウア大通りを通ってワイアラエCCとの間を往復する。
 
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